誰も待たないフェリー
遠い岸へ向かう6:40便は、誰もが覚えているかぎり、ずっと定刻に出ている。待ってはくれない船から、町が学ぶこと。
最初のフェリーは6時40分に出る。そして、6時40分に出る。こう書いたのは、この町の人たちがそう言うからだ。後半に同じ重みを置いて、友人について、彼女は正直で、彼女は正直だ、と言うように。タラップは6:39の50秒後に上がる。そのとき岸壁を走ってくる人がいても、甲板員は同情のまなざしを向けるだけで、動こうとはしない。
私も二度、その人になったことがある。一度目は腹を立てた。二度目には、甲板員の同情は本物で、そこにこそ意味があるのだとわかった。
時計としての船
時刻を寸分違わず守るフェリーは、便利なものではない。ひとつの計器だ。向こう岸の人々は、その汽笛を聞いて朝の時刻を知る。出航の一分前、水面を越えて届く汽笛を。パン屋はそれを聞くと鎧戸を開け、どの季節にも岩場から泳ぎ出す老人たちは、いつ水から上がれば寒さに耐えられなくなるかを知る。11彼らは四人いて、みな七十歳を超えている。毎朝、水温について言い争い、汽笛で決着をつける。鳴ったとき、まだ水に入っていた人の勝ちだ。誰かが計画したわけではない。船が長いあいだ正確に時刻を守ったので、町はその正確さを軸に形づくられていった。庭が壁を軸に形づくられるように。
もしフェリーが遅れてくる人を待つようになれば、親切になるのではない。曖昧になるのだ。岸壁にいる人たちは皆、互いに交渉することになる。ベビーカーを押す女性に一分、いつも遅れる少年に一分、私に一分。汽笛は6:41に鳴り、次は6:43に鳴る。泳ぐ人たちは、水につかったまま長く居すぎることになる。
待たないことの親切
甲板員がタラップを下ろさないとき、守っているのは、ほかの皆の朝だ。彼の同情は私に向けられている。けれど忠誠を尽くすのは時刻表、つまり、時間どおりに来た四十人のほうだ。年を重ねるほど、私はそのことに心を打たれる。たいていの組織は、目の前にいる人に合わせて折れ、それをサービスと呼ぶ。フェリーは誰にも合わせず、それを何と呼ぶこともない。
7:20には次の船がある。そのことも誰もが知っている。227時20分の便は、そこまで時間に正確ではない。誰も気にしない。二便目のフェリーは、遅れを許すのが役目だから。最初のフェリーに乗り遅れても、取り残された人はこれまで一人もいない。ただ遅刻するだけだ。そしてこの町では、遅刻は自分で引き受けるもの。船のせいにはできない。船は6時40分に出たのだから。